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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

カフカス諸国

2006年06月07日

グルジア


 僕はトルコでグルジア人と働いたことがある。彼は著名な考古学者の父親と同名で、やはり同じ科学アカデミーに勤務していた。闊達で冗談好きな彼は完璧なドイツ語とロシア語を話し、酒と煙草を愛する(細かい仕事はそうでもなさそうだったが)。飲むと高名なグルジアのワインを自慢したり、稀にふと従軍体験やロシア人への嫌悪をこぼしたりした。
 なぜか有効期限の切れたパスポートと一抱えの荷物を手に、仕事を終えてバスで故国に帰る彼の後ろ姿と、故国の家族と電話で話すときのグルジア語独特の発音が印象に残っている。そして彼の故国に興味を持ったのだが、グルジアは僕自身の専門にも関係するし、ニュースにも(主に不穏な話題で)度々登場し、この国への興味は尽きない。

 グルジア共和国は面積7万平方キロ弱(日本の約5分の1)、人口500万弱で、黒海の東岸、コーカサス山脈の南側に位置し、旧ソヴィエト連邦を構成した一国である。北隣のロシア、東隣のアゼルバイジャン、そして南隣のアルメニアはいずれも旧ソ連構成国だが、南でトルコとも国境を接している。また国内には自立志向の強い南オセチア、アジャール、アブハジアといった自治共和国・州がある。
 万年雪を戴くカフカス山脈は標高5068mのシュハラ山を最高峰とし、ロシアとの自然国境をなす。この峻険な山脈は同時に北方からの寒気を遮断してグルジアの気候を温暖なものとし、その雪融け水は山麓の2500もの渓谷を潤しつつクラ川に注ぎ、葡萄や柑橘類などの豊かな恵みを保証する。国土の87%が山地であるこの国は金や銅、マンガンといった希少鉱物に恵まれるが、主な産業は農業である。
 ここまで「グルジア」という語を使ってきたが、これはロシア人による他称であり(西欧言語ではキリスト教守護聖人の名に懸けている)、グルジア人は自身を「カルトヴェリ」、その国を「サカルトヴェロ」と呼んでいる。グルジア語は周辺に多いインド・ヨーロッパ語族(ロシア語やペルシア語など)から独立したコーカサス語族に属し、いかにもこの山国らしい。ただしグルジア国内でのカルトヴェリの割合は8割程度で、その他にロシア人やアルメニア人などがいる。

 グルジアはヨーロッパと西アジアの境界上に位置するが、この位置は両者を繋ぐ架け橋の役割を果たしてきた。
 近年グルジア南部のドマニシで175万年前の人類化石が発見されたが、これは人類が発生したアフリカ大陸の外では最古の例であり、人類の進化や拡散の謎を解明する上で注目される。
 農耕や冶金の開始といった文明史上の画期はいずれも西アジアに最古の起源を持つが、近隣のグルジアもその影響を受けた。逆にグルジア起源の遺物が西アジアに分布したり、紀元前1千年紀には北方の騎馬民族スキタイ人がグルジアを通って南下したりもした。
 紀元前8世紀頃からはギリシャ人が船で黒海を行き来するが、彼らにとってこの遠い異郷は身近な存在だったようで、その神話に度々登場する。人類に火を与えたため主神ゼウスに罰せられたプロメテウスは、カフカス山中の岩に縛り付けられたという。また「黄金の毛皮」を求めるイアソンとコルキスの王女メディアの悲恋に彩られたアルゴー船の物語も有名であろう。
 紀元前6世紀頃、グルジア西部にコルキス(コルへティ)王国が成立したが、この国は黄金や製鉄の富で知られ、「黄金の毛皮」はグルジアの枕詞になった。一方で西アジアからの文化的な影響は続き、紀元前4世紀頃にグルジア東部でもカルトリ(イベリア)王国が成立したが、これは西アジアのアケメネス朝ペルシアの弱体化や滅亡と関係するのだろう。
 その後コルキスは小アジア北部のポントゥス王国に服属した。ポントゥスは勢力を拡大するローマ帝国に激しく抵抗したが、その将軍ポンペイウスに敗れ(紀元前63年)、コルキスもローマ帝国に服属する。一方カルトリはローマ帝国とイランのササン朝との係争地になった。

 紀元後337年、カルトリ王国はキリスト教を国教とし、以来グルジアは熱心なキリスト教(グルジア正教)の国となっている。同じ頃独自のグルジア文字(アルファベット)が考案され、現在も使用されている。
 395年に東西ローマ帝国が分裂したとき、コルキスは東ローマ帝国の属国となった。一方カルトリはササン朝の属国となったが、7世紀にアラブ人・イスラム教徒がササン朝を滅ぼした時、グルジアも征服された。こうした外部勢力の支配に対する抵抗運動の中で、文学作品や教会が精神的な拠り所となった。
 975年にバグラト3世が東西グルジアを統一し、バグラト朝が成立する。とりわけ1184年に即位した女王タマルの時代が最盛期で、異教徒に信仰の自由が保障され、貴族による議会の決定や法治を重んじ、また死刑を廃止したという。この時代の教会建築や豪華な書物が各地に残されている。
 しかしその直後の1221年、中央アジアからモンゴル軍が侵入、グルジアはモンゴル帝国の属国となり、さらに1386年にはモンゴルの後裔を名乗るティムールがやはり中央アジアから来襲、グルジアは疲弊した。16世紀に西部は小アジアのオスマン(トルコ)帝国に、東部はイラン(ペルシア)に服属し、グルジアは3つの王国、5つの公国に分裂した。

 18世紀に入ってオスマン帝国やイランが弱体化する一方で、北方では近代化を進めていたロシアの勢力が興隆し、南下政策を推進していく。
 ロシアはまず1783年、独立を保障する代わりに保護国とする条約を東グルジアと結ぶ。しかし1795年のペルシア軍によるグルジア侵攻をロシアは放置し、首都トビリシは破壊され2万人が奴隷化された。ロシアがペルシアに勝った後の1801年、ロシアはバグラト朝の王を退位させ東グルジアを併合した。オスマン帝国の宗主権下にあった西グルジア諸国も、1810年からの半世紀の間に次々とロシアに併合されていった。
 ロシア支配下ではロシア化が推進されたが、同時に西欧式の啓蒙思想や民族主義も流入する。1832年にはバグラト朝復興の動きが起きたが鎮圧された。カフカス支配を強固なものとするため、ロシアはイギリス育ちのミハイル・ヴォロンツォフ伯を総督に任じ、トビリシに総督府を置いた彼の下、西洋式の劇場や図書館が建設され、産業が振興された。1866年には農奴が解放されている。
 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ロシアは連合国として戦ったが、戦争に疲弊して1917年に革命が起きた。ロシアが内戦に陥る中、翌年グルジアは独立を宣言し、敵だったドイツ軍が進駐した。この年大戦は終結したが、連合国もグルジアの独立を承認し、一時イギリス軍が上陸した。独立したグルジアは国際連盟にも加盟する。
 ところがロシアでの内戦は、連合国の介入にもかかわらずボルシェヴィキ(共産党)軍が勝利した。1920年にボルシェヴィキはいったんグルジアの独立を承認したが、翌年2月にグルジアに侵攻して占領し併合、1922年に発足したソ連に編入された。このソ連政府で実権を握っていたのは、他ならぬグルジア人のヨシフ・ジュガシヴィリ、即ちスターリンであった。

 ソ連政府の下、農業の集団化や産業の国有化が行われた。スターリンは独裁体制を確立し反対者を大量に粛清したが、内相としてその片腕となったのは、やはりグルジア出身のラウレンティ・ベリヤだった。
 第二次世界大戦中の1941年、ソ連はナチス・ドイツ軍の侵攻を受けるが、後方のグルジアにあった軍需工場はソ連の勝利に大きな役割を果たした。現在グルジアの輸出品目の第一位は航空機だが、この時に由来するのだろうか。
 スターリンは1953年に死去し、即座にベリヤは失脚した。その後権力を掌握したニキータ・フルシチョフは1956年に「スターリン批判」を展開する。トビリシでもスターリン像が撤去されたが、それに反対する民衆が軍に射殺される事件も起きている。
 重工業を重視したフルシチョフの政策によりグルジアでも産業化が進んだが、同時に闇経済の成長や党官僚の腐敗をもたらした。その綱紀粛正を叫んで頭角を現したのがKGB出身のエドゥアルド・シェヴァルナゼで、1964年にはグルジア内相、1972年にはグルジア共産党第一書記になった。さらに1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し改革(ペレストロイカ)を始めると、シェヴァルナゼは連邦政府の外相に迎えられ、東西冷戦末期の国際舞台で活躍することになる。
 その改革によってソ連の弱体化や東西冷戦での敗北が明らかになると、抑えつけられてきた民族主義が復活した。1989年、トビリシでグルジアの独立回復を求めるデモが発生し、軍により武力鎮圧される事件が起きる。翌年初の複数政党による選挙が行われると民族主義政党が6割の得票で圧勝、その指導者であるスヴィアド・ガムサフルディアがグルジア最高評議会議長に就任した。
 1991年、ガムサフルディアは国民投票でグルジア独立の是非を問い、その結果を受けてソ連の承認もないまま一方的に独立を宣言し、また大統領に選出された。ソ連はこの年末に解体に至るのだが、ガムサフルディアは旧ソ連諸国で構成される独立国家共同体(CIS)への加盟も拒否した。
 彼の強権的な政治運営に対する国内の反発も強く、この年末に反対派が議会を占拠、翌1992年初頭にガムサフルディアは国外逃亡した。これは独立グルジアの混迷のほんの序章にすぎなかった。

 旧野党はモスクワからシェヴァルナゼを招き、彼は国家評議会議長に就任した。しかし就任早々、シェヴァルナゼは国内の分離独立の動きに直面する。まずグルジア北西端にあるアブハジア自治共和国が分離独立を画策、鎮圧のため派遣した軍は大敗し、20万人が難民化した。さらに北部の南オセチア自治州は北オセチア(ロシア連邦内)との合併を要求して分離を主張、ロシア軍を含む国連平和維持軍が出動する騒ぎになった。さらに南西端のアジャール自治共和国も実質的に独立状態になった。
 一方この窮地につけこみガムサフルディアが舞い戻って反乱を起こすなど、混乱は続いた。シェヴァルナゼは人脈を活用してロシアとの友好関係維持を図り、CIS加盟やロシア軍のグルジア駐留権延長などによってロシアの支援を取り付け、この難局を乗り切った。幾度もの暗殺未遂事件を切り抜けた後、1995年にシェヴァルナゼは大統領に選出される。ソ連外相時代の経験から彼はアメリカやEU(特にドイツ)にも顔が利き、ロシアとのバランスを保ちつつ良好な関係の樹立を図った。シェヴァルナゼは1999年に再選された。
 この微妙なグルジアの位置を揺るがせたのは、今やグルジアの最大援助国となったアメリカの世界戦略だった。グルジアはロシアを通さずにカスピ海の石油を西側に輸出できるパイプライン計画を認可してロシアの不興を買った。さらに2001年同時多発テロ以降の「対テロ戦争」の一環として、アメリカはグルジア軍育成のための軍事顧問団を派遣した。属国グルジアに米軍が入り込むことはロシアには許しがたかった。ロシアはグルジア内の分離独立の動きを支援する態度を見せ、ロシア軍のグルジアからの撤退を遅らせ、またロシアを悩ますチェチェン人ゲリラがグルジア内に根拠地を構えているとして越境攻撃を加えるなど、グルジアを圧迫した。
 一方就任から10年になったシェヴァルナゼの周囲では、汚職が蔓延しつつあった。国内融和のため旧共産党系の人物を政権内に取り込んだのだが、彼らがその温床となったのである。
 2003年11月、選挙での政府の不正を糾弾するデモが首都トビリシで発生、手にバラをもったその参加者は瞬く間に10万人に達し、欧米諸国が政府の不正を批判したこともこのデモを勢いづけた。ミハイル・サアカシヴィリ元内相率いるデモ隊は議会に乱入し新政権樹立を宣言する。アメリカやロシアが調停に乗り出すなど交渉が続いたが、結局シェヴァルナゼは亡命した。
 翌年サアカシヴィリが大統領に選出された。アメリカ留学経験のある彼は親欧米路線を採り、エネルギー供給を依存するロシアから様々な圧迫を受け、経済的には独立以来の苦境が続いているが(一人当たりGNI830ドル)、アジャールでの主権を奪還したり、汚職追放や国営企業民営化などの成果を挙げつつある。



 2006年05月14日

アゼルバイジャン


 アゼルバイジャンという日本にほとんど馴染みのない国は、世界最大の湖(塩湖)カスピ海の西岸にあり、北はロシア、南はイラン、西はグルジア及びアルメニアと接している。このうちロシア、グルジア、アルメニアは旧ソヴィエト連邦の国だが、アゼルバイジャンも旧ソ連に属した一国である。
 アゼルバイジャン共和国は面積8万6千平方キロ(北海道とほぼ同じ)、人口800万あまり(神奈川県と同規模)で、北はコーカサス山脈が東西に走って自然国境をなし、国内最高峰として標高4466mのバザルデュズ山を頂く一方、国土の中央を流れるクラ川は肥沃な渓谷を形成し、カスピ海沿岸平野とともに灌漑農耕が盛んである。一方隣国アルメニアに遮断されたかたちの飛び地であるナヒチェワン自治共和国は、アラクス川沿いの山がちな地域である。
 人口110万人の首都バクーはカスピ海に突き出したアブシェロン半島の南岸にあたり、周辺には豊富な湖底油田・ガス田があり、歴史上、そして現在もなお熱い注目を浴びている。

 「アゼルバイジャン」は、本来は現在のアゼルバイジャン共和国だけでなく、今のイラン北西部をも含むカスピ海南西岸の広い地域を指していた。その「アゼルバイジャン」という地名は古代の「アトロパテナ」という地名に由来するという。アトロパテナという地名は紀元前4世紀頃にこの地を支配していたアトロパテスという支配者の名に因んでいる。ギリシャ風の彼の名は本来古代ペルシア語で「火を守る者」を意味する「アタレパータ」といったらしい。アルメニア人が「アテル・パタカン」と訛って記録した地名がアラブ人に「アゼルバイジャン」と訛って伝わったという。
 20万年前の石器が発見されたり、紀元前8世紀以降はスキタイやメディアなど古代史を彩る民族の活動が記録されたりしている、存外古い歴史を持つこの地域は、紀元前6世紀に西アジア全域を支配した大帝国・アケメネス朝ペルシアの支配下に入った。上述の「火を守る者」という名はすなわちアケメネス朝が奉じた拝火教(ゾロアスター教)に由来し(預言者ゾロアスターの子の名前)、またゾロアスターの生地と伝わる場所もあり、いかにもカスピ海底の天然ガスや石油に恵まれたこの地らしいといえる。上記アトロパテスはそのペルシア帝国の総督で、紀元前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王が東征して来たときに降伏し、のち自立したらしい。
 その後この地域は西のローマ帝国と東のパルティア(イラン系王朝)の争奪の地となったが、3世紀にアゼルバイジャンの地は再び拝火教を奉じるイラン高原の支配者・ササン朝ペルシアの支配下に入った。ローマ人にこの地域は「アルバニア」と呼ばれ(バルカン半島に現在あるアルバニアとは無関係)、4世紀頃に西方からキリスト教も広まり、教会が残されている。
 この「火を守る者」の地にイスラム教の支配が及んだのは、ササン朝がイスラム教徒軍によって滅ぼされた前後の643年のことである。当地のキリスト教徒王であるジェワンシールはビザンツ(東ローマ)帝国と結んで激しく抵抗するがそれもやがて潰え、以後住民のイスラムへの改宗が続き、現在はアゼルバイジャンの住民のほとんどがイスラム教徒になっている。

 文化的にイランの強い影響を受け続けてきたアゼルバイジャンだが、既に5世紀には北方の騎馬民族であるフン族の、のちにハザール族やオグズ族(いずれもトルコ系)の侵入を受けていた。
 11世紀に中央アジアの遊牧騎馬民族だったトルコ人(セルジューク朝)が傭兵や移民などとして移ってくると、住民のトルコ化が進んでいった。トルコ人はその後も西進を続けてアナトリア(小アジア)に入り、現在のトルコ共和国へと繋がっていくのだが、現代のトルコ語とアゼルバイジャン(アゼリ)語は非常に近い関係にある。現在アゼリ人が国民のおよそ9割を占めている。
 そのトルコ人を追うように、1220年にはチンギス・カン配下のモンゴル軍が襲来してモンゴル帝国(のちイランを本拠とするフレグ・ウルス、いわゆるイル・ハン国)の一部となったり、1385年にはその後裔を称するチムールに征服されたりした。地生えの君侯国が外来・遊牧民系の大帝国の宗主権を認める状況の中、アゼルバイジャンにはイラン文化を基礎に、遊牧民文化の影響が色濃い文化が形成されていく(特に食文化に濃厚にある)。現在の首都バクーには、12~16世紀に地元君侯であるシルワン・シャーの支配下で建てられたモスクや廟、宮殿などが数多く残されている。
 上述のように現在アゼルバイジャンの住民の多くがイスラム教徒であるのだが、西のトルコではスンニ派がほとんどであるのに対して、アゼルバイジャンでは多くがイランと同じシーア派である。これはイランのサファヴィー朝とトルコのオスマン帝国が激しく争った16世紀、シーア派教団に起源を持つサファヴィー朝が、スンニ派のオスマン帝国に対抗してクズルバシュ(赤帽)と呼ばれる宣教師を各地に派遣して住民を改宗させた結果である。三大陸にまたがる大帝国となったオスマン帝国も、このクズルバシュには手を焼いた(どこかで聞いた話ではある)。
 火器の使用でサファヴィー朝の騎馬軍を破ったオスマン帝国は、1578年にはアゼルバイジャンにまで版図を拡大するが、およそ30年後にサファヴィー朝の英主アッバース1世に奪還された。この時ナヒチェワンでは、キリスト教徒であるアルメニア人に対する強制移住や都市破壊などが行なわれている。アゼルバイジャンは1728年に再びオスマン帝国の支配下に入るも、アフガニスタンの遊牧民を率いて暴風のようにイランを席巻したナーディール・シャーによって1736年に征服され、イランの王朝の支配下に戻った。ナーディール・シャーの横死(1747年)によるイランの混乱と、支配体制が因循と化したオスマン帝国の衰退という状況の中、アゼルバイジャンの諸侯は自立傾向になる。

 ところが北では全く別の勢力が台頭しつつあった。既にシベリアを併呑していたロシアである。早くもピョートル大帝治世の1722年にはロシア軍がアゼルバイジャンに現われていた。
 近代化を進めてオスマン帝国を凌ぐ実力をつけたロシアは南下政策を推進する。第6次ロシア・トルコ戦争を受けて1806年にアゼルバイジャンなどコーカサス地方の諸侯はロシアの保護下に入り、さらにロシアとイラン(カージャール朝)による戦争後の1828年に両者の間で締結されたトゥルクメンチャイ条約によって、アラクス川以北のアゼルバイジャンは正式にロシアに割譲された。
 ロシア支配下のアゼルバイジャンでは、当時新しいエネルギーとして注目された石油がカスピ海で発見され1870年代以降開発が進んだ。20世紀初頭にロシアはアメリカと世界の石油生産を二分する産油国となり、バクーの油田は世界最大となった。これは第2次大戦後に中東の油田が開発されるまで続く。
 1914年に第1次世界大戦が始まると、ロシアは連合国に、トルコは同盟国に参加し、両国は戦争状態になった。しかし1917年にロシアで革命が発生するとロシア軍は瓦解して連合国から離脱する。1918年5月、アゼルバイジャンはロシアからの独立を宣言すると共に大戦での中立を宣言したが、ボルシェヴィキ(共産党)軍の脅威を前にトルコに支援を依頼、1918年9月、バクーはトルコ軍に占領された。ところがその一月後にトルコは連合国に降伏した。
 連合国が支援した反共軍の足並みが乱れる中、態勢を立て直したボルシェヴィキ軍は反撃し、1920年4月にバクーに入城、独立アゼルバイジャンは短命に終わった。1922年、ソヴィエト社会主義共和国連邦の成立にあわせ、アゼルバイジャンはトランスコーカサス(ザカフカス)社会主義連邦共和国の一部とされた。
 ソ連の一部として、1930年には農業の集団化、産業の国有化が進められた。さらに1936年、独裁者ヨシフ・スターリンによって憲法が改正された際、ザカフカス共和国はアルメニア、アゼルバイジャン、グルジアの3国に分割された(三者が融和しなかったため)。この時恣意的に引かれた境界線が、半世紀後に深刻な民族紛争を招くことになる。

 第二次世界大戦当時、ソ連の石油生産の75%はアゼルバイジャンに集中していた。ナチス・ドイツ軍は1942年にこの油田地帯を叩く作戦を始めるが、それがスターリングラードでの大敗に繋がり、ソ連の「大祖国戦争」での勝利をもたらした。
 戦後シベリアで油田が発見されるものの、アゼルバイジャンの石油供給地としての地位は揺るがなかった。ただし計画経済体制の下、この豊かな資源は連邦に収奪され還元されることはなかったが。
 1980年代末、東西冷戦での実質的な敗北と計画経済の行き詰まりが表面化しソ連の弱体化が明らかになると、ソ連を構成する諸国ではそれまで抑えつけられていた民族主義が高まった。アゼルバイジャンの中にはアルメニア系住民が多くを占めるナゴルノ・カラバフ(ダールーウ・カラバウ)自治州が存在するが、1988年にアゼルバイジャンからの離脱とアルメニアとの統合を叫んで民族対立となった。キリスト教徒であるアルメニア人は第1次世界大戦中にトルコ軍によって大量虐殺された経験があり、イスラム教徒かつトルコ人と同族のアゼルバイジャン人への敵愾心が、この対立をさらに凄惨なものとした。1990年にはソ連軍が出動して騒乱を鎮圧し(死者170人)、戒厳状態になる。
 しかしそのソ連は1991年末に解体、アゼルバイジャンやアルメニアは独立した。ソ連というたがを失った両国の戦争は激化し、アルメニア側は「飛び地」のナゴルノ・カラバフと連絡すべく、本国との間のアゼルバイジャン領を占領してアゼルバイジャン人を追放、80万人が難民化した。戦争状態は1994年に両国が停戦することで一応終息したが、現在もナゴルノ・カラバフはじめアゼルバイジャン国土の15%はアルメニア支配下にあり、難民問題は解決しておらず、両国の間に国交は無い。

 初代大統領が軍部のクーデターで追われた後の1993年、ヘイダル・アリエフがアゼルバイジャンの大統領に当選した。KGB出身の彼はアゼルバイジャン共産党で頭角を表わして同国第一書記となり、同じくKGB長官だったユーリー・アンドロポフがソ連共産党書記長になった1983年には連邦副首相にまで昇進したが、1985年にミハイル・ゴルバチョフが書記長になってペレストロイカ(改革)を始めるや左遷されたという経歴を持つ。大統領になったアリエフは自分に対する個人崇拝を進めると共に、カスピ海の石油資源を一族の私有物とするなど独裁体制を固めていった。独立後最初の議会選挙はようやく1995年に行われたが、野党への弾圧が不公正と批判された。
 アリエフは1998年に再選され、実質的に終身大統領の地位を手に入れた。2002年、懸案であるナゴルノ・カラバフ問題でアルメニアと首脳会談するが、物別れに終わった。心臓に持病があった彼は息子のイルハム(石油公団副総裁ののち首相)を後継大統領に指名し、選挙(ただし不公正と批判された)で信任された直後の2003年末に療養先のアメリカで病死した。
 アリエフはロシアやイランとの良好な関係維持を図る一方、言語表記をキリル文字からラテン文字に切り替えてロシアとの距離を保つと共に、ロシア領内を通さずにカスピ海の石油を輸出できるグルジア~トルコ・ルートのパイプライン建設を進めたり(2005年完成)、「対テロ戦争」への協力を名目にアメリカの軍事顧問団を受け入れたりするなど、兄弟国と認めるトルコを通じて西側に接近する姿勢も見せ、国家安泰と権力維持のための強かさを見せた。
 強権的な内政に欧米諸国から批判もあるものの、国内総生産の2/3を占める石油生産(日産47万バレル)の強みもあり国情は比較的安定し、日産180万バレルも可能という将来性もあって二桁台の経済成長が続いている。ただし一人あたりGDPは900ドル弱と旧ソ連圏で最低レベルであり、これは資源のもたらす富が国民に還元されていないこと(汚職も世界最悪レベルという)、また多くの難民を抱えるという過去の内戦の悪影響もあるのだろう。



 2006年10月24日

 アルメニア

 トルコ東部で遺跡調査をしていると、見慣れない丸っこい文字で書かれた碑文や、廃墟となったキリスト教会の跡を見ることがある。これらはかつてこの地に多く住んでいたアルメニア人が残したものである。しかし現在トルコ国内にいるアルメニア人はイスタンブルを中心に僅か6万人程度であるという。またシリア北部の街アレッポでは、アルメニア人街と呼ばれる地域を通ったことがある。当時経済が混乱していた旧ソ連からの買出し客が多く居た。
 小学校の音楽の授業で耳にした、速く激しい旋律の「剣の舞」を作曲したアラム・ハチャトゥリアンもグルジア出身のアルメニア人だが、当時はソヴィエト連邦の一部だった。
 アルメニア人と実際に会ったこともある。最初はドイツの語学学校でだが、温厚そうな丸顔の彼の国籍はアルメニアではなくイランだった。二人目もやはりドイツでだが、クールな殺し屋といった役柄が似合いそうな風貌の長身の男性である。彼は飲み会で先に帰るとき、一緒のテーブルに居た僕らの飲み代を黙って支払っていた。気障だがかっこいい奴だ、と思った。アルメニアからの留学生である彼は、第一次世界大戦中のトルコによるアルメニア人虐殺をアピールする団体に加わっていた。
 美人が多いと日本でも評判になっているアルメニアの女性には、会ったことはない。

 アルメニア共和国は面積3万平方キロ(中国地方とほぼ同じ)、人口300万弱(広島県よりやや多)で、旧ソ連内に15あった共和国の中では最小だった。国土の7割が標高1000m以上という山国で、西でトルコ、北でグルジア、東でアゼルバイジャン、南でイラン及びナヒチェワン(アゼルバイジャンの飛び地)と接している。これら隣国のうちグルジアとアゼルバイジャンが旧ソ連に属する。
 アルメニア共和国は小国だが、歴史的呼称としての「アルメニア」と呼ばれる地域はもっと広く、現在のトルコ東部も含まれる。アルメニア人と呼ばれる人々はアルメニア共和国だけでなくトルコやシリア、イランにも居ることはその名残りといえるが、この分布はクルド人のそれと似ている。
 アルメニアという国名は民族伝説の英雄アルマナケに由来するというが、アルメニア人は自身を「ハイ」、その国を「ハヤスタン」と呼んでいる。その言語はロシア語やペルシア(イラン)語、クルド語と同じインド・ヨーロッパ語族に属するが、独自な一派をなしている。
 古いところでは紀元前2300年頃にメソポタミア(現イラク)のアッカド王ナラム・シンが残した碑文に「アルマニ」という山岳民族が、また現在のトルコ中部に居たヒッタイト人が残した紀元前1400年頃の粘土板文書には東方の「ハヤサ」という国が言及されるが、現在のアルメニア人との関係は分からない。

 紀元前9世紀頃、アルメニアの地はウラルトゥ王国の支配下に入った(なおウラルトゥ語は印欧語族ではない)。トルコ東部のヴァン湖周辺を拠点とするウラルトゥは鉄器生産やダム建設で国力を伸ばし、西アジアの大帝国アッシリアの脅威となった。現在のアルメニアの首都イェレヴァンはウラルトゥの都城エレブニに起源をもつ。ウラルトゥは紀元前7世紀頃に北方の遊牧騎馬民族とアッシリアの挟撃にあって滅亡したが、その名はアララト山の名に残ったという。いうまでもなく「旧約聖書」でノアの箱舟が漂着したと記述される標高5165mの名峰で、アルメニアの象徴ともいうべき存在だが、現在はアルメニア国境から30km離れたトルコ領内にある。
 その後アルメニアはメディア、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王の帝国、セレウコス朝の支配を受けた。セレウコス朝が弱体化した紀元前190年頃、アルタシェス朝やソフェネ朝の下でアルメニアは独立した。紀元前1世紀、アルメニア王国はティグラネス2世の下で最盛期を迎え、その領土をカスピ海からシリアにまで拡大したが、地中海を制覇したローマ帝国に屈し、その宗主権を認めざるを得なくなった。
 その後アルメニアはローマ帝国とイラン高原の強国アルサケス朝(パルティア)との狭間にあって双方の干渉が続き、アルサケス朝がアルメニア王位に就いた。3世紀にイラン高原でパルティアがササン朝に滅ぼされた後も、ローマ帝国とササン朝によるアルメニア争奪が続いた。
 301年、トルダト3世は大主教グリゴルに帰依してキリスト教を国教とし、アルメニアは世界最初のキリスト教国となった。大国に振り回されるアルメニア人の苦難の歴史にあって、キリスト教はその精神的拠り所となっていく。405年には修道士メスロプ・マシュトツにより独自のアルメニア文字が考案され、現在まで使用されている。

 387年にアルメニアはローマ帝国とササン朝の間で分割され、428年には王が退位させられササン朝に併合された。ササン朝はゾロアスター教を強制したがアルメニア人は頑強に抵抗し、キリスト教信仰を認めさせたという。6世紀にはビザンツ(東ローマ)帝国とササン朝の間でアルメニア争奪が続いたが、ビザンツ皇帝は自己を頂点とするギリシャ正教とアルメニア正教(キリストの神性を重視する単性説)との統一を強制しようとして、アルメニア人の反乱を招いている。
 640年、アラブ人のイスラム教徒軍はビザンツ帝国を破ってアルメニアを占領した。イスラム教は宗教的にはビザンツ帝国より寛容だったのでアルメニア貴族たちはその支配を認めた。この時代、アルメニアでは哲学、文学、天文学や音楽が盛んになり、「建設者」と呼ばれた大主教ネルセス3世の下、現在世界遺産に登録されているエチミアヂン大聖堂やズヴァルトノツ大聖堂などが大改修された。
 イスラム教カリフ(教主)のアッバース朝が衰退した885年、バグラト家のアショト1世はアルメニア王国の独立を達成した(ヴァスプラカン王国)。10世紀末のガギク1世のとき王国は最盛期を迎え、その都アニ(現在トルコ領内)は「1001の教会をもつ都」と呼ばれたが、間もなく内紛により衰退し、再びビザンツ帝国の属国となった。
 折しも元来遊牧民だったトルコ人が中央アジアから西進しつつあり、ビザンツ帝国はトルコ人に対する最前線となるアルメニアの防御を強化すべく、宗教対立を抱えるアルメニア人の西方移住を進めた。しかしトルコ人の西進は止められず、1064年にアニが陥落、1071年にはマンツィケルトの戦いでビザンツ帝国は大敗し、アルメニアはトルコ人王朝の支配下に入った。
 アルメニア人の一部は地中海沿岸のキリキア地方に小アルメニア王国を樹て(1080年)、十字軍と結んで独立を保ったが、1375年にエジプトのマムルーク朝に滅ぼされ、アルメニア人国家は20世紀まで姿を消すこととなる。

 トルコ人の支配下でもアルメニア人は独自性を保ったが、1223年のモンゴル軍の侵入や1400年のティムールの遠征によって国土は疲弊した。トルコ人やクルド人(共にイスラム教徒)の移住によって、15世紀初めにはアルメニア人が少数派に転じた地域もあった。
 1500年にはトルコ人のオスマン帝国(スンニ派)とイランのサファヴィー朝(シーア派)がアルメニアを東西に二分する。サファヴィー朝のアッバース1世は1604年に25万人のアルメニア人をイランに強制移住させており、イランには今もアルメニア人コロニーが残っている。一方オスマン帝国の領内では、アルメニア人はユダヤ人と並んで商業に活躍し、帝都イスタンブルには多くのアルメニア人が住みついた。
 18世紀に西欧式近代化を行って興隆したロシア帝国は、19世紀に入るとキリスト教徒の守護者を自負して南下を進める。1828年、イラン支配下のアルメニア(現在のアルメニア共和国の領域)はロシアに割譲された。ロシア・トルコ戦争後の1878年にはオスマン帝国支配下のアルメニアも一部(カルス地方)がロシアに割譲された。
 ロシアの南進に呼応するように、オスマン帝国内のアルメニア人には、ヨーロッパの民族主義や啓蒙思想に触れてアルメニア人意識に目覚める者が現れた。独自の文字・文学やキリスト教徒意識が民族意識を高め、トルコ人やクルド人に対する抵抗運動が起きた。しかしこれに対する反作用(トルコ民族主義・イスラム主義)としてアルメニア人に対する弾圧が強まり、1894~96年に最初の虐殺(推定犠牲者20万という)が起きた。多くのアルメニア人が欧米に移住するのはこの頃からである。

 1914年に第一次世界大戦が起きると、ロシアは連合国に、オスマン帝国は同盟国に参加、ロシア軍がトルコ領内に進撃する。このことはトルコ領内のアルメニア人を微妙な立場に置くことになった。アルメニア人が同じキリスト教徒のロシアに通じることを恐れたオスマン帝国は、翌年4月24日に迫害を開始する。この戦争中に続いた迫害の結果、150万人のアルメニア人が組織的に虐殺され、また多数が移住・逃亡やイスラム教への改宗を強いられたとされる(虐殺についてトルコ側は認めていない)。
 大戦中の1917年にロシア革命が起きると、アルメニア人は翌年5月にアルメニア共和国の独立を宣言した。さらに同年10月、トルコは連合国に降伏、戦勝国が定めた1920年のセーヴル条約では、およそ500年ぶりのアルメニア国家復活が認められた。ところがロシア革命後の内戦で共産党が勝利し、敗戦国トルコで国民会議が主導権を握ると、双方は講和してアルメニアを南北から挟撃、1920年11月にエレヴァンは共産党軍の手に落ちた。
 翌年共産党とトルコはカルス条約を締結して、アルメニアに属したカルス地方のトルコへの割譲を定めた。1922年、共産党はソヴィエト連邦を建国し、アルメニアはザカフカス社会主義共和国の一部とされた。1936年にソ連は憲法を改正してアルメニアは共和国に格上げし、現在のアルメニア国境が画定される。
 ソ連体制下のアルメニアでは化学工業が発達し、第二次世界大戦後にソ連が打ち上げた宇宙ロケットの部品の多くがアルメニアで生産されていた。温暖なアラクス川沿いの農業開発も推進され、とりわけ19世紀に生産が始まったアルメニアのブランデーは、その芳醇さと柔らかな喉ごしで世界的名声を得ている。

 しかしソ連の計画経済は1980年代には完全にゆき詰まった。2万5千人が犠牲になった1988年12月7日のアルメニア大地震は、はしなくもそれを露呈した。元より貧弱だったインフラは完全に麻痺したうえ寒波が到来、重工業重視のあまり民生を軽視していたソ連政府は、初めて外国の援助を受け入れざるを得なくなった。
 ソ連の弱体化が明白になると、抑えつけられていた民族主義が噴出した。隣国アゼルバイジャン領内のナゴルノ・カラバフ(アルツァフ)自治州は元来アルメニア人の多い地域だったが、1988年以降その支配をめぐってアルメニア人とアゼルバイジャン人は激しく衝突した。アゼルバイジャン人がトルコ系民族であることも、アルメニア人の敵愾心を増幅した。
 1991年にソ連が崩壊すると、アルメニアとアゼルバイジャンはそれぞれ独立したが、両国の紛争は続いた。大統領に選出されたシリア出身のレヴォン・テル・ペトロシャンはアルメニア民族主義を鼓舞して国民の団結を図り、ロシアやイランの支援を受けたアルメニア軍はナゴルノ・カラバフと本国を結ぶ地域を占領した。数十万の難民を出したこの戦争は1994年に停戦したが、現在もなおアゼルバイジャン領の6分の1はアルメニア占領下にあり、両国に国交は無い。
 1998年、テル・ペトロシャン大統領はアゼルバイジャンと妥協しようとしたため辞任に追いこまれた。後任は首相だったロベルト・コチャリャンだが、彼はナゴルノ・カラバフ出身である。2006年、憲法が改正され議会の権限が強化された。
 隣国アゼルバイジャンと対立する上、トルコとは歴史問題や国境問題(アルメニアはカルス条約を認めていない)で国交が無い。北のグルジアはロシア(アルメニアの友好国)との国境が事実上塞がれている。こうした孤立環境はアルメニア経済を著しく圧迫し、アルメニアの一人あたりGDPは911ドルと低く、国民総生産の2割はロシアやアメリカ、フランスなどに数百万人いる在外アルメニア人からの送金によるという。民族意識の強さとは裏腹に、国外に移住する者も多い。
 産業では宝石加工業が盛んで、イスラエルとの貿易量が大きい。


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